4. 国家社会主義
(写真:Arnold Rosé, Max Starkmann and Josef Geringer)
1898年から1901年までグスタフ・マーラー(1860-1911)がウィーン・フィルの定期演奏会の指揮者を務めました。そのツィクルスにおいて、彼はアントン・ブルックナーの交響曲第6番、アントニン・ドヴォルザークの《英雄の歌》の初演の指揮を振りました。ウィーン・フィルはマーラーの指揮のもと、1900年のパリ万国博覧会に際して初めて国外で演奏しました。マーラーとウィーン・フィルの関係は、芸術的な高みを基調としたものでした。しかしながら、和解に落着したものの、難しいやりとりもまた両者の関係の特徴を表すものでした。ウィーン・フィルが、マーラーの交響曲第6番の楽譜を印刷に出す前に、彼に作品を試聴できる機会を与えるための3回の試演に合意し、その演奏に対する報酬を辞退した時、マーラーはこう書き送りました:「私の新曲をこのように完璧に演奏して下さり、喜びを与えて下さった宮廷歌劇場オーケストラの皆様には、心からの御礼を申し上げたく存じます。皆様お一人お一人に、そしてオーケストラとしての皆様に私は恩義を受けており、皆様とは職責上だけでなく、個人の人柄や地位、また芸術上の見解とは関係なく、全ての芸術家を一つにする芸術の絆で密接に結びついていることを私が誇りとしていることは確かなこととお受け止め下さるよう、お願い申し上げます。グスタフ・マーラー」
1901年から二年間、ヨーゼフ・ヘルメスベルガー二世(1855-1907)が定期演奏会の指揮者を務めました。天賦の才に恵まれた作曲家のヘルメスベルガー二世(これまでにニューイヤーコンサートで11回演奏されている)が退任したのち、1908年に官庁に認定された協会組織となったウィーン・フィルは、現在も実施されている客演指揮者制を試用していましたが、1908/1909年のシーズンからはフェリックス・フォン・ヴァインガルトナー(1863-1942)を定期演奏会の指揮者に選任しました。ヴァイガルトナーの19年間に及ぶ時代にウィーン・フィルの演奏旅行が本格的に始まり、1922年には初めてヨーロッパを離れ、南アメリカで客演公演を行いました。
1906年から1944年までの間にウィーン・フィルはリヒャルト・シュトラウス(1864-1949)の指揮でウィーンおよびザルツブルクで85回のコンサートと数々のオペラ公演を行いました。両者の関係は、ウィーン・フィルの歴史に一つの最盛期をもたらしましたが、1942年にウィーン・フィルハーモニー管弦楽団創立100周年を迎えたときにシュトラウスがこの関係を次のように表現しています:「ウィーン・フィルを賞賛することは、まるで釈迦に説法です。[中略]今日は、二つの短文で賛辞を贈りたいと思います。ウィーン・フィルを指揮したものだけが、彼らが何者かを知っています!しかしながら、これは我々だけの秘密です。」
更なる最盛期は、1933年から1937年までの間に芸術性の絶対的な基準を構築したアルトゥーロ・トスカニーニ(1867-1957)との共演、そして定期演奏会の指揮者制度は中断されていましたが、1933年から1945年まで、1947年から1954年までの間、ウィーン・フィルの事実上の首席指揮者であったヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1886-1954)との共演によりもたらされました。